はじめまして。ぜんざぶろうです。漢字で書くと「全三郎」です。 ここでは私の自己紹介をしたいと思います。
先ずは、2020年5月現在の状況を箇条書きで。
- 週5日勤務のサラリーマン生活
- 実験など行うエンジニアで、テレワークもちょっとしずらい
- 週末2日は割と自由。外に出にくい状況の今、家族全員で家に籠り中
- 突然の一時帰休で、半月ほど仕事も行けず
- チャンスと捉え、副収入を得るべく勉強と実践にいそしむ日々
サラリーマン生活は来年2021年の1月でいったん終了(卒サラ)します。
その時点で娘の大学卒業まで1年余り。
仮に娘が大学院に進んだら、さらに2年間分の教育費が必要となります。
私立理系で学費は年間約130万円。私の定年後、教育費だけでもけっこうかかるという事実。
さて、2021年の1月の定年(卒サラ)以降はどうなるんでしょうか。
では、現在59歳の私のこれまでの人生についてお話しします。
生い立ち
1961年、東京は台東区下谷(たいとうく したや)に生まれる。
親父は富山県出身で中学校卒業後集団就職で上京し、下町の伝統工芸職人のもとに弟子入り。
私が生まれたのは下谷神社の近くに間借りしていた借家の2階で、 その後上野駅近くの小さな一軒家に引っ越し。
さらに私が小学校3年の時に、浅草の小さな古い家を買って移り住みました。
ちなみに、「下谷」-「上野」-「浅草」のある東京都台東区は、約2km四方の小さな区。
どこも歩いてすぐに行けるくらいの、そんな距離感です。
高度成長の時代ではありましたが、まさにカバン一つ、裸一貫で地方から上京。
職人として腕を上げ都内に小さな一軒家を立てたという、頑張り屋で倹約家の父でした。
小、中、高校時代
小学校の頃の私は、かなりのやんちゃ坊主でした。
小1の時に、クラスで初めて先生に「立ってなさい」って言われたのが私で、
私「おー!これが漫画に出てくる立ってなさいなのか!」
って感動したのを覚えています。
でもね、なんか知らんが女子に凄くモテました。間違いなくクラス1。
自分では全く理由が分からなかったです。
6年生の頃に好きな子は出来たんですが、残念ながらその子には全く興味も持たれず。
生涯唯一のモテ期を無駄に過ごしました(笑)
中学校ではバスケ部に入りました。背が低くて高くなりたいってのもあったかな。
「バスケをやると背が伸びる」のではなく、「背の高い奴がバスケやってる」、ってことに気づいたのはずっと後の事でした。
高校でもバスケ部です。
音楽系サークルに入ろうと決めてたんですが、出身中学のバスケ部の先輩に下校時に捕まり、無理やり入部させられました。
入部は半強制でしたが、多分本気でイヤだった訳じゃないですね。部活引退になる3年生の春まで、抜けずに続けましたから。
高校ではゼッケン4番背負ってキャプテンでした。
じゃ当然レギュラーだな、って思うかも知れませんが、スタメン入ったり入らなかったり。
絶対的なものではなく、なんか中途半端な感じでしたね。
バスケの実力がそこまで伴わなかったってことなんですが、やっぱり悔しかったです。
成績ベリベリ下位グループからの国立大現役合格
部活引退の高3の春まで成績も全く振るわず、真ん中より相当下をふらふら。
同じ中学出身だった女の子に
「アナタはもっと勉強出来るはず。頑張って!」
なんて謎の励ましを受けたりしました。
心配してくれるのはありがたいが、ほっといてくれ(笑)
高3春の部活引退後、さーここからが大学受験。
理系志望でしたが、こんな成績じゃ国公立なんてとても無理。
当時の国立大学の学費は今でも覚えています、なんと半期で72000円、年間144000円(学部問わず)
かたや私立大学は、、、ってよく覚えていないんですが、理系の場合で500000円以上はしていたと思います。
自分は中学しか出ていないのに、仕事を頑張って大学まで行かせてくれようとする親父。
そんな親父の背中を見ていたので、直接言われはしませんでしたが絶対国公立大学に行こうと決めました。
国公立大学、と一口に言っても、地方国立大では仕送りや何やらで結局お金がかかりますよね。
となると、狙うは家(浅草)から通える国公立大学、、ということで、よし!一番近い東京大学!
はさすがに無理なので、ドアtoドアで1時間半で通える千葉大学を選択。
入試のモチベーションを上げるために、大学に入って軽音楽部でバンドをやる!って目標を立てました。
塾や予備校は一切いかず、毎日図書館に通ってゲロ吐くくらい受験勉強しました。
丁度、共通一次試験が導入された元年で、なんとかギリギリ合格って感じでしたね。
バンドとバイトに明け暮れた大学生時代
大学では学問よりも部活(軽音楽部)に精を出し、ギターばかり弾いていましたね。
学部はどこ?って聞かれたときに「工学部」と答えずに「軽音楽部」と答えるのが常でした。
勉強は全然好きで無かったです。絶賛受験勉強中は、
こんな受験のためだけの勉強じゃなく、大学受かったら好きな勉強するぞ!
と結構モチベーション高く。
入学直後、1年生の講義の選択もかなり前向きにしたんですが、いきごみはここまで。
授業始まったとたんに、そんな気持ちはどっか行っちゃいました。
サークルは目標通り、軽音楽部の門を叩きました。4年間、バイトとバンドに明け暮れていましたね。
バイトは ビラ配り、家庭教師、塾講師、ラーメン屋店員、すし屋店員、着ぐるみの中の人。
運送屋、配送助手、引っ越し、スポーツ店店員、赤ペン先生などなど。
大学院に進むなんてことはこれっぽっちも考えておらず、とにかく早く就職してお金を稼ぎたかったです。
憧れの社会人生活
会社に入社し、社会人になり給料を貰った時は嬉しかったです。
ずっと実家から学校に通っていたので、自分のお金で一人暮らしが出来るというのも嬉しかったですね。
会社では研究所に配属になりました。若い職場で楽しかったです。
研究所とはいえ、そこでの技術が直接製品に繋がったり、開発部門的な役割も担っていました。
もともと学者肌とは程遠く、父の血を受け継いだのか職人的な仕事の方が性に合っていました。
さて、「研究」と「開発」って、何が違うのでしょうか?
「研究所」で新しい技術を生み出し、実現性が増し製品化となります。その際に「開発部門」に技術を移します。
「開発」で製品化を進める という流れが一般的です。
もちろん、研究していたものが製品化する、、、なんて滅多にないわけで、ものすごーく上手くいった場合の話ですけどね。
「研究」と「開発」、「プロダクトアウト」と「マーケットイン」
研究所で仕事をしているときに、自分たちが作った技術の良さを認めてもらえず、
「これがどう素晴らしいのか」
を丁寧に丁寧に説明しても、中々分かってもらえなかったり、
「欲しがる人は必ずいると信じるものの、本当に存在するのか」
「無料なら使うけど、お金出して買うお客さんはいるのか」
などなど。説得がどうしても必要みたいな仕事が嫌でした。
結局、研究者の独りよがり的な感じがしたんです。
研究者「こんなん出来ましたけど、、欲しいですか?」
お客さん「別に。」
研究者「うそ!欲しいと言って!」
お客さん「いりません。」
これは私の考えであって正解とは限らないんですが、プロダクトアウト的な仕事をするのが研究部門だと感じています。
研究部門で中々認められない仕事が続いた20代、「もう会社辞る!」って思ったことが有ります。
その時に相談した上司に
「お前は開発部門の方が向いてると思うよ」
というアドバイスを受けました。
研究の仕事と比較すると、開発部門は「要求されているものを作る」仕事です。
私「必要ですか?」
お客さん「必要だからはよ作れ!」
みたいな感じ。説得する必要がないんです。
もちろんその分、納期が非常に重要です。
言ってみれば、マーケットイン的な仕事をするのが開発部門です。
私は開発部門への異動希望を出し、受理されました。
お客さん「欲しい!」
私「 そんなに欲しい?」
お客さん「 欲しい、はよ欲しい!すぐ欲しい」
私「 欲しがりだなぁもー、つくちゃるからまっとれ!」
お客さん「 はい! 」
極論ですが、こんな感じですね。
納期とかいろいろ大変なのは当たり前ですが、こっちの方が私の場合、性に合ってます。
それに伴う責任とかは当然大きくなるんですが、ストレスなく仕事を楽しめます。
何度か「脱サラ」「転職」を考える時期がありました。
でも、結局社内での異動を選択し、転職はしなかった、、、という事です。
脱サラして、親父の職人の仕事を継ごうとした
何度か会社を辞めようとした、、と書きましたが、浅草で貴金属加工の職人である親父の仕事を継ごうと思ったこともありました。
私は、親父の血を引いたためか手先が器用で、エンジニアの仕事でも十分に生かされていたんです。
本気で後を継がせてもらおうと思い親父に話をしたのですが、丁度私より一足先に弟が後を継ぐことになってしまい、「跡継ぎは一人で十分!」と却下されました笑
手先の器用さでは私の方が上なんだがな、、、、と悔しく思いました。
親父の仕事はこういう「金」や「銀」で装飾品を作る仕事でした↓↓
(これは親父の作品では有りませんが)
当時、弟は高卒で運送業をしていて、仕事もあまりうまくいってなかったんです。
その点私は大学を卒業して、エンジニアとしてそこそこの給料貰って働いている状態。
親父にとっては、中卒の父が行きたくても行けなかった大学を卒業したんだから、しっかりエンジニアとして一人前になれ!という思いがあったようです。
私が跡継ぎを断られた理由はもう一つありました。
私が大学1年生の冬、装飾品の材料である「金」の価格が暴騰しました。
第一商品ホームページより転載
1980年1月。その前年まで1グラム1000円台だった「金」の価格が、ソ連(当時)のアフガニスタン侵攻を機に、一気に1グラム6495円まで駆け上がりました。6倍弱です。
職人の収入は「手間賃」ですから、材料の価格が6倍に上がっても変わりません。しかも高価な「金」という材料の価格に比べたら、とーーーっても安いものです。
ですので、材料の価格が6倍に上がると、製品の価格もほぼ6倍になります。
さて、何が起きるでしょうか。
答え:お客さんが買い控える
そりゃそうですよね。それまで50万円だったものが、一気に300万円ですから。
お客さんが買わなければ注文も有りません。この業界全体で、仕事が一気にパタッと無くなりました。
同じ職人仲間が次々と廃業していく中、我が家はそれまでの貯金を削りながらなんとか食いつなぎました。
厳しい状況は数年続きましたが、「金」の価格が下がって来るにつれ、仕事が入ってくるようになりました。
すると、廃業して辞めてしまった職人仲間の分まで、歯を食いしばって耐えて残った親父に仕事が周ってきたのです。
そして、私を無事に大学卒業まで通わせてくれました。
当時親父は、
「自分ではどうにも出来ない事で無くなってしまう仕事だ。誰にも跡は継がせたくない。」と言ってました。
でも本心では誰かに継いで欲しかったのは間違いないですね。弟が継いだ時の嬉しそうな顔を見て、初めてそれが分かりました。
私は却下されましたけどね~。
社内ベンチャーへの挑戦
これも社内での異動の話です。
2000年、社内でベンチャーの子会社を立ち上げるという計画が発表され、開発に必要なスキルを持つエンジニアを、社内、社外に向けて募集していました。
そのベンチャーが開発する商品は、技術的な難易度が非常に高いものでした。メンバーは全員子会社に出向、先ずは社内の実験室で技術を確立し、将来的にアメリカで工場を立ち上げるという計画。
資金は親会社(その時点で勤務している会社ですね)からの出資に加え、ベンチャーキャピタルからの融資を募り、そう遠くない将来アメリカに技術も人も移管するというもの。
参加して成功した場合、家族ごとアメリカに移り住むことになる訳ですね。
そこで必要とされている技術には、私の専門領域のものもありました。
結構先行き不安でもあるので、手を挙げて参加する人間はそんなにいません。
難しい技術だけに当然会社側もリスクは考えていて、仮に失敗したとしても参加した我々は元の会社に戻れる、という道を作ってくれていました。
それがあれば、全然リスクではないと思いました。
自分たちが作り上げた技術が商品化に結びついた!というのが技術屋にとってはこの上ない喜び。そして、難易度が高ければ高いほど、その喜びは大きい。
そりゃもうやりたくなってウズウズしますよね。
当時の私は結婚し、娘が生まれて数か月目という状況。家内に相談したところ、二つ返事でOKです。さすが私の家内です。
「書類審査」-「面接」を経て参加が許され、新しく作った子会社に出向し、総勢20名ほどで開発がスタートしました。
ここでは毎日が本当に苦しい開発業務で、夜遅くまで実験の繰り返しでした。
でもそれが楽しくもあったんです。
「子会社に異動」となったとたん、親会社(私も含め、多数のメンバーがついこの間まで居た会社ですよ)からの、つまらん理不尽な扱いを受けたりしながらも
「今にみてろよ~(笑)」と言って仕事していました。
9.11同時多発テロ、そしてベンチャー解散
開発を進める中で、その後の世界秩序を大きく変えるほどの事件が発生しました。
「9.11同時多発テロ」です。
2001年の9月11日。その日も遅くまで実験し、会社を出たのは22時過ぎ。車を運転して帰宅する途中の私の携帯に家内から着信が。
- 曰く「アメリカで凄い事件が起きた」
- 曰く「ハイジャックされた飛行機がビルに突っ込んだ」
- 曰く「どうやらテロらしい」
- 曰く「まだ何機も空を飛んでいる」
ちょっと何言ってるか分からない、、、。とにかく驚きましたね。
帰宅したその晩は、TVニュースに釘付けでした。
9.11の事はこれ以上書きませんが、その後アメリカ国内の景気後退が起こり、ベンチャーキャピタルも融資を中止。
日本の景気も当然悪くなり、親会社も出資を中止。
同僚はアメリカに行き工場の下見(停止中の工場を借りる計画でした)まで済ませていたものの、全ての計画は中止。
子会社は解散。
メンバーは元の親会社に戻る、もしくは退職。
という結果に終わりました。
技術的にも未解決の課題がありましたし、9.11のせいだけにするつもりはありませんが、結果として大きな挫折を味わうことになりました。2002年の夏でした。
会社はエンジニアとして参加した我々をねぎらってくれて、別の研究テーマを探すように言ってくれました。
再び別の研究活動を続けますが、一世一代の大仕事の後です。
失敗の後ですから、すぐには何をやったら良いか見つからず、悶々とした時期を過ごしてました。
その落ち込んでいた心を救ってくれたのが、とある日本が誇るキャラクターでお馴染みの某テーマパークでした。
お子様向けテーマパークのパレードで号泣
時を2か月戻しましょう。2002年の6月、ベンチャー子会社が解散になる2か月ほど前。
やはりこのままじゃ駄目かもしれない、世間の景気も悪いし、アメリカで工場なんか作る金はどっから出るの??
失敗したら俺たちどうなるの?というあせりがピークだった時期です。
「サンリオピューロランド、行ってみたい」
どこぞでタダ券貰ってきた家内が言いました。当時2歳の娘をキティちゃんに会わせたいんだとか。
そうだねぇ、、、行ってみるか。
余りまくっていた有休を取って、家族3人で平日のピューロランドへ。自宅から車で1時間半くらいかけて、多摩センターのピューロランドへ向かいました。
いくつかショーを観て、思ったより良かったんです。特にパレード「イルミナント」の素晴らしさは、想像の斜め遥か上空5000メルテを飛んでました。
その半年後、2003年に再び家族3人でピューロランドに行きましたが、パレード「イルミナント」が見たくて見たくてタマラン状態でした。
この時、前回「イルミナント」で心の琴線に触れた部分がちょっとだけ分かったんです。
それはラストの部分の歌詞です。
「イルミナント、輝け命、誰の心にも」
良いねえ
ちょっとだけじーーんときました。
パレード「イルミナント」の映像を収めたDVDも売っていましたが、迷った末に買わず、音源だけ収めたCDを買って帰りました。
そのころは完全に子会社解散で元の研究所に逆戻り。仕事はやりたいことがちゃんと決まってない宙ぶらりん。
一緒に苦労していた仲間も、みんな苦しんでいました。
私は割と若い奴等の相談役みたいな感じだったので(ちっとも偉くは無いんですが)、みんなを励ますことが多かったんです。
良いじゃん、なかなか出来ない経験できたんだからさ、次に生かせるよ!
ピューロランドで買った「イルミナント」の音源CDはしばらくほっておいたんですが、わんこの散歩の時にPDA(電子手帳みたいなやつね)に曲を入れて聴きながら歩いてたんです。
良い調子で歩いてた時に「イルミナント」のテーマ曲が始まって、その時に初めて歌詞がまともに耳に入ってきたんですね。
誰にでも叶えたくて叶わない事があるなら
目を閉じて大事な事
思い出してみればいいね
その胸の中にある君だけの光を
空へとかざせば夜はあけてゆくよ
これを聴きながら歩いていると、何故だか涙が止まらなくなってしまいました。
なんで泣いてるんだ俺は!
分かったんですよ。
強がってるけど、へーきな顔してるけど、あの時から俺はずーーっと凹んでるんだよ、って事にいまさらながら気付いたんです。
誰にも言えなかったけどはっきり分かったんです。
家族の手前だったり、後輩たちの手前だったりで無理していたことが。
でも、、、、そうだよ。あの頃がむしゃらで、結果はでなかったけど輝いてた気持ちは本物だったんだよ。
あの時の光は、今もこの胸にあるんだよ。ここにって。
その後の歌詞も胸にじんときちゃってぼろぼろでした。わんこの散歩しながら河原で号泣。
なんていうか、「慰められてる!」って感じですかね。
「つからったよね。でもまだ頑張れるよ!」って言ってくれてるのね。
それからは本当に毎日聞いて勇気付けられていたんです。
お陰で気持ちを切り替え、その後、いい仕事ができるようになって。
良い仕事した!成功だ!とは言えないけど、頑張れる仕事、これが出来たら会社に貢献できるぜ!っていう研究課題を見つけることができて、全力投球することができました。
ピューロランド紹介サイトを作り、Yahoo!のTOPページで紹介される
本当にピューロランドには救われたなぁ~
ピューロをみんなに知ってもらわなきゃっていかん。みんなヤバイよ、絶対知らないでしょ。
っていう気持ち。
よし!紹介用のホームページつくる!
2003年7月。まだ3回しか行って無かったんですけどね(笑)どうにも書かずにはいられなくなってしまって。
その5~6年ほど前に「ホームページをつくろう!」みたいなのが流行ったんです。
インターネットプロバイダーが提供する無料サーバーに、飼ってるわんこのとの話を載せたり「水無川エックスファイルズ」「オレウン探検隊」(←なんでしょソレ)などというおバカなホームページなど作って公開していました。
仕事が忙しくなってきて、最後は自然消滅でしたが。
ピューロサイトなんて書けるのかな、、、と思いながら、日頃友人に力説しているピューロの話をそのまま書き始めると、あらあら不思議、スラスラと書けるではありませんか。
そして「お父さんのためのピューロランド講座」というサイトを公開しました。
内容は、「ショー、アトラクション紹介」「ピューロランド紹介」「ピューロランドレポート」あとコラムとか色々。
作っても誰も見に来てくれないのは悲しいので、当時いくつかあった「ホームページ紹介サイト」と、「Yahoo!JAPAN」に登録申請をしました。サイトにお客さんを呼びたいなら、なにはなくとも最大手のYahoo!登録です。
当時は作ったホームページをYahoo!に申請し、認められたサイトに限りYahoo!のディレクトリに登録されました。(今はそういうシステム自体、無くなっています)
7月に登録申請して、8月1日に「ご推薦いただいたページをYahoo! JAPANに掲載させていただきました」というメール。やったぜ!
そして、8月3日に「新着ピックアップ」というコーナーで紹介されました。(びっくり!)
さらに8月5日、「サーファーが選ぶ日替わりサイト」に、素敵な紹介文とともに紹介されました。(超絶びっくり!!)
両コーナーともYahoo!のトップページに表示されるんです。つまり、Yahoo!を開くと私のサイトが紹介されてるって状況です。
このお陰で、アクセス数はうなぎ上り。SEOの効果も凄くて、「ピューロ」「ピューロランド」で検索すると、本家ピューロランドの次に私のサイト、なんていう状況でした。
メールもたくさん頂きまして、とにかく多くの方にピューロランドを紹介出来たのが嬉しかったです。
2004年7月、1年間続いたらやってみたいな、、、と思っていた「独自ドメイン取得」を実行してみました。調べた結果、ドメイン取得とサーバーレンタルは「LOLOPOP!」
データを移したついでにデザイン変更やらコンテンツのリライトやら、結構面倒くさい作業でした。
でも、好きな事で新しいことにチャレンジするってのは楽しいです。
「アクセス数の増加」=「ピューロランドの宣伝」だと思っているので、色々調べてアクセス解析も導入しました。当時はまだGoogleでのサービスが無かったのかな、、、。以前のサイトでも使っていた、忍者ツールズです。今もありますよね。
どんなキーワードで検索されているか、どのページにアクセスが多いか、、、など基本的な事が分かって面白かったです。
ただ、「書きたいことを書く」「紹介したいことを書く」っていう思いだけでサイトを作っていたので、アクセスを増やすためのキーワード選定、なんてことは考えたことありませんでした。
アクセスが増えていくに従い、前々から興味のあった「ホームページでお金稼ぎ」ってのにもチャレンジしたくなりました。
アドセンス収益化~アカウント停止、収益没収
「ホームページでお金を稼ぐ」と言っても、既存テーマパークの紹介サイト。ここに広告を貼る、所謂アフィリエイト以外の収益は思いつきませんでした。
当時は「ブログ」が「日記用途」としてやっと出始めたばかり。まだWordPressなんて一般的には影も形もなく、HTMLタグで書かれた「ホームページ」が主流でした。
このHTMLのソースに、アフィリエイトの広告を貼り付けるって感じですね。
当時は「バナー広告」と「テキスト広告」の2種類がありました。私が選んだのは「テキスト広告」として一般募集が始まったばかりのGoogle Adsense。
今では泣く子も黙るGoogle Adsenseですが(笑)当時はそこまでの存在では無かったと思います。
テキストのみの広告でしたが、表示されることでいっぱしのサイトになった様でカッコよかったんですよね。それが嬉しかったです。
収益に関してはちびちびながらも意外と増えていき、ワクワクしていました。
一定の金額に到達したタイミングでGoogleから「支払いしますか?」のようなメールが来たものの、増えていくのを楽しみに支払い依頼はしませんでした。
収益が2~3万円くらいまでたまりワクワクしてたところ、ある日突然サイトから広告が消えたんです。
そしてGoogleからメールが1通。
ここにその文面をそのまま載せちゃいましょう。
2005年7月○○日
〇〇様
お客様のウェブページ上の広告に対する無効なクリックが確認されました。この
ため、お客様の Google AdSense アカウントを停止させていただきました。この
措置は、広告主様を保護するためのものであることをご了承ください。サイト運営者様のサイトでは、どの広告に対しても無効なクリックは認められま
せん。無効なクリックには、サイト運営者様ご自身によるウェブ ページでのク
リックや、ロボット、自動クリック ツール、またはその他の不正なソフトウェ
アの使用によるクリックなどが含まれますが、これに限りません。Google が無
効と判断する過程ではあらゆる方法が用いられております。このような行為は、Google AdSense の利用規約とプログラム ポリシーへの違反
になります。詳細については次の URL をご覧ください。
(中略)
無効なクリックにより、アカウントが停止された場合、今後 AdSense はご利用
いただけません。また、収益のお支払いも行われません。アカウントの残高収益
は広告主へ返金されます。
The Google AdSense Team
え?ちょっと何言ってるかわかんない
寝耳に水でした。広告を自らクリックするのがご法度なことくらい分かっているので、自己クリックした覚えはホントに無かったです。
何かの間違いに決まってるよなぁ~と思いながら、
無効なクリックについて、私は一切そのようなことは行っておりません。
納得いきません。いつのどこからのどのクリックが、言われたような無効なクリックなのでしょうか。
教えてください。毎日、収入が増えてくるのを楽しみにしていたのに。(原文ママ)
という、今思えば挑戦的なメール(笑)をGoogleに出したものの、いつまで待っても返信は無く。
おかしいな。調べてもらえばすぐに何かの間違いだって分かるはずなのに
ネットの情報を色々調べると、このような「いきなりアカウント停止!」という報告はいくつもあって、どれも
「一旦そういう事になったら最後、復活は絶対に在りません!」
と書かれていました。
ひえー!まじか!
なんか知らんがこうなった以上、諦めるしかなさそう。こんなことなら支払いをお願いするんだった~と思ったものの後の祭り。
とりあえず広告がホームページから消えて絵面が妙に寂しくなったので、「Aほにゃネット」やら「バリューほにゃース」やら「ほにゃ天」やらに申し込んでいくつかバナー広告を貼りました。
ですが収益化という事自体にすっかり興味をなくし、広告収入があったのか無かったのか、確認さえしないままでしたね。
そして忘れもしない2011年1月。娘が小学校6年の時です。「もうピューロランドには行かない」宣言されました。
かなりショックでした。
家内に「来年から中学生。子供じゃないんだからピューロなんて、、、」みたいなことを結構吹き込まれていて、その影響が大きいと思ってるんですが。
お前が行かなくたって、お父さんは一人で行くよ!
てな感じで何度か行ったんですが、やっぱり娘が全く行かないとなると、私自身も自然と足も遠のいてしまって。
サイトの更新も滞り、載せている情報もどんどん古くなっていき。
そして2012年、契約していた独自ドメインの契約が切れるタイミングでも更新せず、サイトも消滅してしまいました。
2003年に見切り発車でサイトを作ってから9年。
当初思っていたよりは長く続いたな、、、と思うものの、やはり寂しかったです。
再び研究所勤務、そして開発部門へ引き抜かれる
挫折を経験し、ピューロランドに再び息吹を吹き込まれ。そのお陰で再び研究の仕事に本気で打ち込むことができるようになりました。
実際に仕事も充実し、自分がアイデアの元を考案したシステムがチームの力を結集し、製品化一歩手前まで。
東京ビッグサイトでのショー(コミケ、、、、ではなくビジネスショーみたいなもの)に出展して、説明員もやりました。
興味持ってくれた会社も多く、応用検討も進み、 やりがいのある仕事でした。
残念ながらビジネスの規模が会社の期待するものよりも小さいということで、お取りつぶしになってしまいましたが。
その後の研究所での仕事として、タブレットPCの操作ログを活用するシステムのリーダーを任されました。
これは畑違いだったため苦労しましたが、チームメンバーに助けられ楽しかったです。
これも結局、製品化には至らなかったですけどね。
それが終わって後始末的な仕事をしている最中の2016年、現在在籍する開発部門から声が掛かりました。
彼らの必要としている技術は、私が過去に携わってきた技術です。
入社当時のものであり、今は社内で私以上に詳細が分かる人間は居ない、、、という状況。
私もやりがいを感じ開発部門に異動し、楽しく仕事をさせてもらっています。
58歳で再びピューロランド紹介サイトの作成に
2011年までほぼ月1で娘と通ったピューロランド。娘が中学生になったと同時に完璧に卒業した、、、と思っていました。
しかし、高校生になった頃からでしょうか、ちょいちょい娘から「一緒に行こう!」と誘ってきていました。
友達と行ってくれば良いのに、、、
本気でそう思っていましたが、結局行くことになるんですよね(笑)
2014年に行った時に、メインのショーであるパレードが新しくなっていました。正直言って我ら親子にはイマイチでした。
「前の方が良かったね、、、」って感じ。
そして2016年。「パレード変ったみたいだから行こうよ!」
と、またまた娘に誘われたもののパス。その後、2017年の秋に二人で行くことになりました。
どうせまた、、、と思って観たパレード「ミラクルギフトパレード」でしたが
あれ??なんか全然違う、、、
そうなんです。想像以上に素晴らしくてちょっとびっくり。
「いったい何が起きたんだ!」って言うくらい、違っていました。
「これ、もっとちゃんと観たい」
次に行った時に今度はしっかり正座して観まして(←嘘です)ちょいと心が震えたのを覚えています。
そして「これを紹介したい、、、」という思いがふつふつと湧き上がってきました。
この時私は58歳。定年60歳まであと2年。
仕事は楽しい。
趣味のバンド活動(ハードロック)に、通っていたボーカルスクール。定年後の楽しみのために始めたJAZZギター。
どれも楽しい。
でも、中途半端でやり残したこと、、として記憶されていたピューロランドを紹介するサイト。
これを再びやってみたい。
ただ、2003年にサイトを作った当時とは、大きく異なる点がありました。
当時のピューロランドはホントに平日などガラガラで、
もっとお客さん増えないと潰れちゃうんじゃないの??
って思いが原動力になっていました。誠に失礼千万ですみませんが。
でも、2018年の今は違います。もう、めちゃくちゃ混んでる!!
これ以上お客さん増えたら座って観る場所なくなっちゃう!!って感じなんですね。
なので、一瞬迷いはしたものの「ミラクルギフトパレード」の素晴らしさを伝えるだけでも!っていう思いに忠実に、サイトを新しく作ることにしました。
調べると、昔は「HTMLでホームページ」ってのが主流でしたが、今は「WordPressでブログ」ってのが主流のようです。
ワード、、、プレス??
さっぱり分かりません。
色々調べて、詳しい人に助けてもらったりしつつ、なんとかブログ作成に取り掛かりました。
この学んでいく過程も、結構楽しいんですよね。
そして、作ったブログが「娘と仲良くなりたいお父さんのためのピューロランド講座」
昔のサイト名のままだと面白くないので「娘と仲良くなりたい」って言葉を加えました。
折角なので、棚に積んであったハードディスクから昔のサイトのデータをサルベージし、WordPressに書き換えて公開もしました。
調子に乗ってYouTubeチャンネルもスタートするが、、、、、
サイト再開のついでに、娘とピューロに行ってた頃に撮影していたショーの動画をYouTubeに上げてみたんです。
オリジナルがめっちゃアナログのビデオテープなので、動画をアップするって結構面倒くさいんですよ。
数百本あるテープの中から該当するショーを探しだし、再生しながらパソコンに取り込む。
昔のビデオテープは結構エラー起こしてるところがあるんで、全編チェック。
公開を始めると、嬉しいことに反響があって、リクエストが来るようになりました。
こういったピンポイントのリクエストに応えるのはぶっちゃけ大変です。
でもそれだけ熱い気持ちのリクエストですから絶対応えたい訳です。
そうは言っても、リクエスト頂いたショーを撮影していないこともあります。そんな時は本当に申し訳ない気持ちになりますね。
タイムマシンがあれば、昔に戻ってばっちり撮ってやりたい!
YouTubeは視聴者多ければ金になる!ってことは当然知ってますよ。
知ってますが、過去になぜか知らんうちに(←ここ重要!)Googleにアカウント停止食らってる身。
深く考えず昔のアカウントのままチャンネル開設したんで、アカウントが同じと見なされ収益化できない筈。
でも、、、、15年も昔の話だし、、、全く身に覚えないし、、、(←ここ重要!)
ワンチャン億万長者?
よし、確認してみよう!
念のため調べてみたら、新設したYouTubeチャンネルも申請する前からアドセンスアカウント停止扱い。
私のの作るチャンネルは、未来永劫収益化できないんだよ!っていう裁定。
んなもん分かってたわ
別に金の為にピューロ動画をアップしてるわけじゃないのでね。そんなのどうでもいい。
おれはアップし続けるのさ。(←カッコいい~!)
2019年7月に動画アップをスタートし、200本目をアップしたのが同年11月。
そこから多少ペースを落としたものの、2020年5月現在300本目をアップ終了。
お金のためじゃないんです。
あの時感動をくれて、私の気持ちを再び奮い立たせてくれたピューロランドへの恩返し。
YouTubeチャンネルを収益化するにあたっては「登録者1000人以上」というゲートがあります。
現在のチャンネル登録数は約800人。あと200人で1000人!!ですが、私にとってはどうでも良い。
ただただ、一人でも多くの方に素晴らしいショーを見てもらえたら嬉しいです。
まだまだ未公開映像が残っています。ペースは落とすこともあるでしょうけど、ちびちびアップしていくつもりです。
なにしろ、公開しないまま私が死んじゃうと、過去の素晴らしいショーの永劫が、誰の目にも触れずに朽ち果ててしまうのでね。
それは余りに悲しすぎるじゃぁないですか。
おっと長くなりましたので、続きはまた、、、。